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ヤマアラシのジレンマ 空気はキンと音がしそうなほど澄んで、今日は風がない。 昼が近い構内の、ラウンジに隣接したテラスの方はがらんとして人気もなく。 一番端の席についてファイルを開けた。 空気も椅子もテーブルも冷たい。 近くの棟の一室で講義が早めに終わったらしく、賑やかな人の声と靴音が移動し ていく。 「……あんた寒いとこ好きなの？ 物好きだね」 コートのポケットの両側に手を突っ込んで、長すぎるマフラーをぐるぐる巻きにした ハルチカが信じられないといった目つきをして、正面の席に勝手に座った。 特に用もないのに、外の席に座ろうと思うハルチカの方がよほど物好きだ。 黙っていると寒いのかしばらく一人で振動していたが、そのうち思い出したように鞄か ら一枚の紙きれをとりだした。 「これ今度の学祭で写真の展示やるから。よかったら来てよ」 モノクロの紙きれに数点の作品がランダムに散らばっているポスター。 「これ、オレの撮ったやつ」 その中の一点を指差して、ハルチカはへらっと笑った。 右上は他の写真と重なって見えないが、何か長い針のようなものが密集している 。 「……………何、」 「ヤマアラシ」 「…………………」 「展示のテーマが、 “物憂げ” なんだ。 知ってる？ ヤマアラシ。背中のトゲトゲで外敵か ら身を護ってるやつなんだけど。よく見てたらわさわさして動きにくそうでさ。 ……あ、悪い、ちょっと電話」 一方的に喋っていたハルチカは一方的に遮って一方的にケータイに出た。 「そうなんだって」 ひとしきり盛り上がって楽しそうにしたあと電話を切って。こちらを見た。 「この前の飲み会で知り合った子。今夜会うんだ」 へらっと笑う。 「………………………………………………………………」 「なんで怒んだよ。 じゃあ、あんたが付き合ってくれる？」 「………………………………………………………………………………」 「冗談だよ。その威圧感怖いって」 ハルチカはけらけらと笑った。 動きにくそうなのはハルチカだと思うのに。 嘘の気持ちで身をかためて、いつしか行き場をなくしてしまうんじゃないかって。 「別にあんたが怒るようなことないよ。 向こうも最近フラれたらしくてさー、単なる残念会。 ねえ、“ヤマアラシのジレンマ”って知ってる？」 唐突にハルチカは写真に向き直った。 「この前なんかの講義で教授が言ってた。 二匹のヤマアラシがいて、寒いから身を寄せ合おうとするんだけど、近づけば近 づくほど、互いの身を守るトゲが痛くて近寄れないって話。 なんか寂しい話だよな」 写真に印刷された痛くない刺を手でなぞる。 またどこかの教室が開いて、雑音が広がっていく。ラウンジがまた一段と賑や かになった。昼だ。 「ハルちゃん」 澄んだ空気を転がるように声が響いた。ハルチカの動きが止まった、ような気が した。 教科書を抱えて立っていたのは倉田鳩子だった。 こちらと目が合うとふわっと笑う。 「これからお昼？」 「いや、今日は昼まで」 「そうなんだ。週末だし帰ってくるんでしょ？」 「いや、帰らない。今夜はカノジョと出掛ける予定だから」 「そうなの。あまり遠くの方まで行かないのよ」 「……やめてよ。いくつだと思ってんだよ」 そう、ごめんね、と倉田は微笑んで、それじゃと立ち去った。 倉田が見えなくなってからハルチカはテーブルに頭をくっつける。 「あー、痛いなー ……痛い」 「……………………………」 「あんたの視線もイタい」 ハルチカは茶色い瞳だけを動かしてこちらを見上げるとゆっくりと瞬きをした。 「……思い出した。あの話聞いたの吉永先生の講義だ」 吉永准教授は、全学科全学年対象の一般教養を担当している先生だ。 「ハトコはさ、あの先生に惹かれるとかいって。考え方とか理想とかどんなに素 晴らしいかを、頼んでもないのにオレに聞かせてくれるけど。なんとなくわかる んだ。それはただの憧れで。本当に好きな人は別なんじゃないかって。ホントは 、ホントは加賀サンが一番……」 それから弱く目を伏せた。 「ごめん、あんたの前でする話じゃなかったね」 「……………いい。知ってるから」 ハルチカは傾いた視線のまま物憂げに笑った。 「でもさ、どうせ離れても痛いんなら、近くて痛い方がいいかとも思うんだ」 夜の冷え込んだ空気は一層張り詰めて、隙間なく埋まっている。 しばらく加賀を見ていない。 ときどき加賀は辛そうな顔をする。 近づくと、触れると、加賀も痛いのだろうか。近づけば近づくほど。 だけどどうすることもできなくて、やっぱり、痛い。
ヤマアラシのジレンマ、はドイツの哲学者の寓話によるそうです。
昔聞いたそれがずっと印象に残ってる。 （０７,１２,５) |