雨音の憂鬱






 屋内に響く雨の音が気になって、耳をつけて聞いている。
 壁に、窓に。さあさあと降る雨の音は何も求めない。離れることもなく、近寄りもしない。偽らない。問いたださない。責めることもない。ただそこに聞こえているだけで、楽だ。



 その日の試験は午前で終わり、透明なビニール傘にあたる雨の音を聞いている。一番近い裏門へ向かうのに、あの角を曲がってテラスの横を通らなければいけない。雨音に人の声の雑音が混じった。たくさんの規則正しい糸の折り目にほころびが入るように。
 その中の一筋が加賀の声だと認識した時には、もう角の先まで来ていて、半分曲がったところで止まった。
「だって明日で試験終わりなんでしょ」
「そうだけど」
 屋根のある外の席にいたのは、加賀と、髪の短い女の子だった。よく加賀と一緒にいる人達の一人だ。けれど、今日は加賀と二人きりだった。
「ね、終わったらどこか行かない? ……二人で」
 他愛もない話題から、不意にトーンを変えた彼女に、息をとめた。今まで固めた意識の中に埋もれていたものが急に存在を示す。きっと彼女ははるか前から抱えていたものを今この時に手放す決意をした。その一瞬に立ち会ってしまっただけで。
「悪いけど……」
「そっか。ごめんわかってて聞いた。つき合ってるんでしょ? 鳩子と」
 彼女はあっけらかんと、でも一息に言った。これ以上聞いたら息の仕方を忘れてしまう。あの人は加賀が好きなのだ。なのに加賀はあの人が好きじゃない。それをあの人は知っている。
「……それは」
 顔を逸らした加賀と、目が合ったのは同時だった。
 彼女みたいに潔く姿勢を正すこともできないし。
 だから、何でもない顔をすることなんて簡単にできる。
 向きを変えて、わずかにほどけかかった靴の紐だけを見て、気がつけば走っていた。バシャバシャと乱れる音で、雨の音が聞こえない。
 痛い、と思った。神経の感覚とかじゃなく、もっと根底的なところが痛い。
 正門から外へ出て、人の視線など関係なくて、息を切らして走って走って逃げ込んだのはやっぱり自分の部屋だった。
 わかっているはずなのに、改めてつきつけられると痛いのだ。頭での了解など何の意味もない。
 ドアの音で、また鍵を忘れていたことに気づいた。
 いつも鍵をかけろかけろと口煩い加賀。今日ばかりは言うとおりにしていれば良かったと、ドアのところに立って同じように早い息をする加賀を見て思った。
 部屋の隅に同化してしまいたかったのに、加賀はいつもみたいに迷うことなく真っ直ぐ近づいて正面にいた。発表で意見を述べるときもそう。留学に行ったときもそうだった。だからこれからも間違えたりなんてしないだろう。
「なんで逃げるんだ」
 知らない。足が動いたからだ。
「………………………………………」
 ほら、また辛そう顔をする。
 言葉は出なかった。こうしてまたごまかしてやりすごして、時間が経っていくのを待てばいい。
 あの寓話の2匹のヤマアラシのように絶対の距離を置いていればいい。
 ………………………。

 ―― でもさ、どうせ離れても痛いんなら、近くて痛い方がいいかとも思うんだ。

 ふいにハルチカの言葉がよぎった。
 近く。
 屈み込んでいる加賀に手を伸ばして体重をかけたら後ろに倒れた。今だってぎりぎりの縁にいる。
「おい、」
 加賀は驚いたように声をあげたけど、突き放したりしなかった。
「………………………………痛い?」
 尋ねた。
 薄暗い中で見下ろした加賀の顔の中で、目だけが鈍く光っている。
「お前が無表情で泣いてたら痛いよ」
 雨音と同じ温度の声で加賀は言った。
 おかしなことを言う。何でもない顔なんて簡単にできるのに。
 加賀は間違えたりなんかしない。ただ揺らいでしまうだけだ。いつだってそうだ。水の中で凍える生き物がいたら軽々しく手を伸ばしてしまう。その後の生き物の気持ちなんて考えもせずに。
 同情という気の迷いさえ無視できたら、加賀はちゃんと真っ直ぐ進めるだろうに。
 それを知っているのに、とめることもできなくて、狡いのは自分だ。

 ―― ねえ、わたし狡いの。選ぶこともできないくせに、忘れられるのは怖いのよ。

 倉田なら、泣かない。
 彼女なら決して人前で涙を見せることはないだろう。彼女にはきっと一生かかってもかなわない。
 加賀の、暖かく息をしている心のあたりに耳をつけた。
 走ったせいで
 雨より早い鼓動を聞いている。きっと自分の鼓動も同じくらい早い。
 問いたださない。責めることもない。ただそこに聞こえているだけで、 この音はひとつも楽じゃない。
 鴨になりたくても鴨にはなれなくて、ヤマアラシみたいでもヤマアラシにもなれないから、こうしている。自分は自分でいることしかできないと。いつも教えているのは加賀なのに。
「……俺は布団の代わりじゃないんだが」
 困惑したような加賀の声が響く。冷たい畳に背を押しつけられて、上にはこれから先を妨害する重しがのっている。でもどこか嬉しそうに言うから。
 おかしなことだと思った。










わりとよく泣くカモと、
泣けない鳩子。

Xmasの頃にあげようと思って、幸せな感じにしようと思って
ぎりぎりだし、そんなでもないし
(07,12,30) 







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