きみしぐれ




 冬の日暮れは早くて、日にちの間隔をあいまいにさせる。
 アパートに帰ってドアを開けると、何も居ない廊下の片隅が目に入る。
 この部屋に来ていたのはほんの少しの期間だったのに、いざ来ないとなると、最初から何も無かった空間の方が変に思えるのだからおかしなものだ。だがそれもすぐ消える。
 冷蔵庫に何の食材が残っていたか考えながら靴を脱ぐのに専念した。
 あれからカモはぱったりと姿を見せない。
 そうだろうと思っていたから、ドアノブを回すたびに期待するような真似は、しない。



「これから時間ある?」
 大学の西門を出たところで、たまたま出くわした鳩子に腕をとられたのは、3限も終わった午後のことだった。
 聞けば、これから吉永准教授の自宅まで、前に引き取ってもらった猫を見に行くのだという。律儀にも定期的に訪れているらしい。あのキジトラの、前に三日間だけ無理やり預からされた、痩せて懐かなかったあの子猫。
 ちゃんと猫らしく声を出して鳴けるようになっただろうか。
 特に予定もなく、少しの気がかりで、同行することにした。
 バスに揺られながら、建物ばかりで代わり映えしない灰色の街並みを眺める。外に飽きて隣りに向けると鳩子の持っている白い紙の小箱が目についた。
「それは、」
「ああ、これ、和菓子なの。手土産ってほどじゃないけど、いつもお茶を頂いているから、悪いでしょう」
 大学の近くの店の名前を挙げた。しっかりしていると思う。
 また外に目をやる。
 灰色に思えたのは急に怪しくなってきた空模様のせいもあるようだ。
「降ってきそうね」
 向こうが明るいから通り雨じゃないかしら。
 視線の行方に気付いたのか、鳩子がぽつりと口にした。
 でも、わたし雨ってわりと好きよ。
「子供の頃ね、フルート教室に通ってたんだけど。雨が降るとお父さんが傘を持って迎えに来てくれるの。
 でね、帰りに必ず和菓子屋に寄って買ってくれたのが黄身しぐれ。
 黄身しぐれなんてあんまり好きじゃなかったけど、わたしが喜ぶだろうと思って買ってくれるの。それがわかったから喜んだ風にしてた」
 窓から外を見た。雨はまだ落ちてこない。
「でも変ね。今になって時々食べたくなるの。あまり好きじゃなかったのに」
 芯が強いのにふいにそんな声をする。
「そうか、」
 とだけ言った。
 こういう時に、気のきいた返しもできない。
「そうなの、」
 鳩子はそう言って唇の端をあげた。少し笑った横顔だった。
 ピンポンと音がして、誰かが押したらしく“ 次停まります ”のボタンに紫の灯りがついた。
 こんなだから、自分の元につかまえておけないのだ。鳥も猫も、人も、鴨も。



 バスを降りて鳩子に案内されたのは、街中から少し山際に行った所に在る、小ぢんまりとした和風の家だった。
 一瞬自分が邪魔していいものかという思いがよぎったが、余計な心配だったようで、奥から出てきた准教授は「いらっしゃい」と眉を下げた。
 通されたのは庭の見える、縁側に面した居間だった。棚には植物関係の分厚い学術書が並び、壁の隅には何かの草が乾かすのにつるしてある。白い簡易ヒーターが妙に浮いて見えた。日の入る明るい部屋だが、片付け切れてないような慌ただしさが見えて、なぜだか少しの気安さをもった。
「ちょっと待って下さいね」
 先生はガラガラと縁側の引き戸を開けて、外に向かって、さくら、さくら、と呼んだ。しかし入って来るのはひんやりとした空気だけで、一向に変化はない。
「愛想のない子で」
 困ったようにこちらを振り返る。
「あの塀の上に座ってるんですよ、わかります? あの上から外を通る人を眺めるのが日課なんです。この寒いのに、随分 変わったネコですよ」
 言われるままに縁側に立ってみると、塀の上に赤い首輪をした後ろ姿が見えた。記憶の中の子猫の姿ではなくなって、大人の猫と変わらない大きさだ。「さくら・・・、キジ、」本当にあの猫なのかと声をかけてみたが、耳一つ動かしもしない。
「さくら、」
 鳩子が呼ぶとぱたりと一度しっぽを揺らしたが、やはりこちらに戻って来る気配はない。
 寒いので入りましょう、先生は慣れた様子であっさり居間に戻ると、お茶を出してくれた。
「黄身しぐれですか」
 鳩子の手土産を箱からとりだして嬉しそうな顔をする。
「黄身時雨……秋から冬にかけて降る気まぐれな雨の様子を、ほろほろとした生地で表したお菓子、ですね」
「先生って何でもよくご存知なんですね」
「いえ、説明書に書いてあります」
 説明書か。
 どこかふわふわと定まらないやりとりをする鳩子と先生を見ていた。こういうのを波長が似ているというのかもしれない。
「時雨といえばさくらですよ。ふらりとやって来ては去る。もう呼んでも来ない。
 猫ほど気まぐれな生き物を知りません。あの小さな頭の中で何を考えているのかさっぱりわからない」
 先生は二等分にした黄色い和菓子を、一口食べて苦笑した。
 どうやらこの人もキジには懐かれていないようだ。
「でもそこがいいんでしょう」
 ねえ、と どういう訳だかそこで鳩子に同意を求められたが、よくわからなかった。



 もう降らないのかと思っていた雨が降ってきたのは、准教授宅を後にして、駅前のバス停に降り立った頃だった。
 時間も時間だったので、近くの店で夕飯をすませ、そのまま駅で鳩子と別れた。
 傘を持っていなかったのでどうしたものかと思っていたら、もうやんでいる。
 アパートの部屋に戻ってドアノブに手をかけて、朝出がけに洗濯物を外に出したままだったことを思い出した。慌ただしく靴を脱いで、薄暗い廊下を通ってベランダまで行ったが何も無い。結局、直前で干すのをやめただろうか・・・首をかしげたが、記憶にない。
 深く考えず、マフラーとコートを壁に掛けて、来週 提出のレポートにとりかかることにした。
 机に向かったのはいいが何の構成も浮かんでこず、借りた資料を悪戯にめくっている内にいつしかうたた寝をしていた。
 ふと目を覚ましたのは、遠くからカタリという音がしたような気がしたからだった。
 現実ではなく夢だったかと、身を起こそうとした時、また音がした。
 ヒタヒタヒタヒタと微かな足音。
 ・・・・・・・・居る。
 ヒタヒタとした足音は、廊下を通って近付いてくると、この部屋の前でとまって。やがて入って来た。
 机に突っ伏したまま、後ろを振り向けないでいた。
 足音は部屋の中程、背後からすぐ二三歩のところでとまる。そのまま部屋はしんとした静寂につつまれた。
 金縛りにでもあったように、いつ終わるともない時間が流れる。
 背後に感じた気配も嘘なのではないかと思えるほど。
 これがすべて気のせいで、後ろに誰もいなかったら滑稽だなと、振り向こうとした時だった。
 急にふわりと左半身に重みがかかる。
 首を向けると、すぐ下に背を預けて座っているカモの頭が見えた。
 人のことを背もたれか何かだと思っているのか。


 気まぐれで好き勝手。
 あの小さな頭の中で何を考えているのかさっぱりわからない。
 そんな、准教授の言葉がよぎった。
 心配など、気になどする方が負けなのだ。
「加茂、」
 口に出せば、ゆっくりと振り向いた加茂の真っ黒な瞳と目が合った。
 どうしていたのかだとか、しばらく来なかっただとか、治親の傍にいたのかだとか、聞きたいことがからまって、今日は通り雨だったとか、そういえばキジを見に行ったのだとか、どこから切り出せばいいのか詰まる。
「………………………」
「…………怒ってる、」
 ふいにカモの方が口を開いた。
 怒る? 疑問形なのか。何が。何を。
「何、」
「………………………………鍵、返さなかったから」
 真っ黒な瞳は動かない。喋らない。
 は?
 しばらく悩んで、ようやく数ヶ月前に渡したこの部屋の合鍵のことを言っているのだと思い当った。
 返すも何も、予備のカギの事など気にしてなかった。
 それと同時に、そんなことで来たのかと。
 そんなことを考えたのかと。
 この他人に興味をもたないカモが、一瞬だとしても気にかけたのかと思うと、無性におかしくなった。
「持ってろよ」
 また来いって、言ったろ。
「………………………」
 真っ黒なガラスの瞳は、一度またたきをして、首を前に戻した。
 ふらりと歩み寄ってきたかと思われた関心は、もうどこかにいってしまった。
 でも、今 触れているこの腕をつかもうとも振り払おうともしないその気まぐれが、こちらに向けられる瞬間を、また待つのだろう。 なんだ、最初から負けている。










実はずっと居た。


情報誌にあった黄身時雨の説明にへぇ〜と思ったので。
黄身しぐれ = 一時的な雨 = 猫 = 気まぐれ
な図式にしたかった希望。
(12,1,15) 







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