人魚の歌
真昼のように 月が明るく照らす晩には 入り江から歌が聴こえる。 近く 遠く 美しい歌。 村のはずれの丘の上で、シルルはこっそり歌の練習をしている。 音のずれた調子はずれのひどい歌。 自分でもわかっているから、誰からも隠れて歌っている。 シルルは歌が大好きだ。音楽の先生からも声が良いとほめてもらったのに、どうしても上手く歌えない。 「へったくそだなー」 突然木の上からふってきた声にシルルは目を丸くした。 丘に一本だけ立っている木の上、生い茂った葉っぱの陰からトトが顔を覗かせた。トトは同じ村の学校の子だ。音楽の時間にいつもシルルの歌をからかう。 「ひどい、黙って聴いてたのね」 「昼寝してたら、そっちが勝手に歌いに来たんだろ」 よっ、とトトは木の上から飛びおりた。 葉っぱがぱらぱらと一緒に落ちてくる。 「へたな歌。入り江の人魚とえらい違いだな」 トトがそう言うと、シルルはさっと顔をこわ張らせた。 “入り江の人魚” は村の子供たちの間で口にしてはいけない言葉だった。 月が真昼のように明るい晩には 入り江に人魚が歌いに来る。 その姿を見たものは皆、人魚に魅入られて海に引きずり込まれる。 村には古くからそんな言い伝えがあった。 月の明るい晩には、村のどの家もぴったりと戸締りをし、早く床につく。枕もとで大人は子供たちに、子守歌がわりに昔の話をした。そうして最後にはそろってこうつけ加える。 だから月の明るい晩には決して入り江に近づいてはいけないのよ。 人魚の姿を実際に見たというものは一人としていなかった。けれども夜半、布団の中で、かすかな歌声を聴いたものも少なくなかったのだ。 「人魚のことは言ったりしちゃダメなのよ」 「そんなの嘘っぱちだよ」 ばかだなぁとトトは言う。 「海に近づきすぎないように大人が言ってるだけさ。人魚なんている訳ないだろ」 「・・・・・・でも、歌が聴こえるじゃない」 「あんなの海鳴りだよ。それか崖をかけのぼる風の音。それじゃなかったら、酒屋のへたくそな歌い手が隠れて練習してるのかもしれないな」 シルルみたいに。 そう言ってトトはおかしそうに笑った。 シルルは顔をうつむけて耳まで真っ赤になる。 「そんな歌、やめちゃえよ」 トトの一声で、瞳を涙でいっぱいにしたシルルは丘から駆けおりて行った。 男の子と喧嘩しても負けないシルルがこんなことで泣くとは思わなかった。 ふん、とトトは鼻をならす。 人魚なんていないのに。 その晩は見事な満月だった。 雲もなく、風もほとんど吹かない。真昼のような白い光が小さな村に降り注いだ。 家々はこぞって戸締りをし、ある時間を過ぎるとぽつんぽつんとともっていた灯りも消えて、村はしんと静まりかえった。 布団を頭までかぶって数をかぞえていたトトは、灯りが消えた頃を見はからって、静かにベッドを抜け出した。他の部屋を覗くと、両親も小さな弟もぐっすり眠っている。トトは足音を立てないよう慎重に歩くと、裏口に向かった。 人魚なんて嘘っぱちだ。 この目で歌い声の主を確かめに行って、人魚なんかいないってみんなに証明してやるんだ。 やっぱり酒屋のレイチェルだったよ。シルルには明日そう言ってやろう。 きしむ木戸を抜けると、ふうわりとした夜の空気がトトの周りを取り囲んだ。トトは耳を澄ましてみるが、辺りは水を打ったように静かである。いつもはたくさんの人でにぎわっている通りはひっそりとして、猫一匹見当たらない。 さすがのトトも気味悪く思い、いったん家の中に戻ろうかと考えた時だった。 音が聴こえた。 海鳴りではない。風の音・・・・・・でもない。流れてくる音には節も高低もあった。これは歌だ。確かに誰かの歌声だった。 海の方からだ! そう気づいた時、トトは思わず入り江に向かって駆け出していた。 歌はとぎれて消えそうになるかと思えば、はっきりと届いてくることもあった。細くて高い声。 あの広い海のどこからか、歌は響いてくる。 入り江近くには父と一緒に何度か行ったことがある。トトは月の光を頼りに、村を抜け、海に続く林を走った。歌声はだんだんと近くなる。 木の数もまばらになり、林を抜けるという頃、ぱっと視界が開けた。同時に、透き通った声が蓋を開けたように溢れ、トトの耳に流れこんできた。 ここを抜けたらすぐにでも歌っている誰かに気づかれてしまう。トトは大きな木の陰にはり付くようにして、わずかに顔を覗かせた。 目の前にはほぼ波もなく、凪いだ海が月光にさらさらと揺らされている。 その海面をすべるように歌声は流れてくる。 美しい、けれどどこか哀しい歌。 耳から入った歌声は、全身を巡ってトトの心を揺さぶった。 この人は何がこんなに哀しいんだろう。 入り江の近く、海面から突き出した岩場に腰かけている影がある。低い波がよせてきた瞬間に、パシャンと人間のものではない足先が飛沫を散らした。 不思議と怖いとは思わなかったし、そこにいるのが人魚だということもすんなりと受けとめられた。こんな美しい歌をうたえるのは人魚でしかありえないような気もした。 トトは本当に魅入られたかのように動くことができなかった。 叶うことならいつまでもいつまでもこの歌を聴いていたかった。 しかし、何かを感じとったのだろうか。人魚は突然ぱたりと歌うのをやめた。 トトの隠れている方をガラス玉のような瞳で見つめている。 トトが少し動いた途端に、人魚は素早く海へ飛び込もうとした。 「待って!」 トトは思わず声をあげていた。トトが子供だったせいだろうか。人魚は海に消えずにその場にとどまった。 「逃げなくていいよ。ここで聴いてるだけだから、歌って」 人魚はじっと感情のない顔でトトを見ている。 「海につれて行くんならつれて行けばいい。歌が聴きたいんだ」 それでもいい。本当にそう思った。 人魚はわずかに口を動かした。人魚との間にはかなりの隔たりがあるのに、まるですぐ近くで囁かれているような声がした。 「・・・・・・歌うことはできません」 「どうして」 トトは叫ぶように返す。 「わたくしの歌はあなたのためのものではないからです」 トトには何のことだかよくわからなかった。ただ悔しいようなやりきれないような気持ちだけが伝わった。 「・・・・・・なら。なら誰のために歌ってるんだよ。こんな所で。たった一人っきりで」 人魚はガラス玉のような目を細める。 哀しいような優しいような困ったような、不思議な表情だった。 「陸へかえった人のために」 ザザンと波の音が響いた。 「あなたももうお帰りなさい。海にとらわれてしまわないように。あなたには、あなたのために歌ってくれる人がいます」 ・・・・・・そんな人はいない。 あんな胸がひきつられるような声で歌う人はいない。 トトが一つ瞬きをする間に、綺麗で哀しい人魚は、夢のようにいなくなっていた。 トトが昼寝をしている木の下で、シルルが楽譜を眺めて小さく歌っている。 座ったと思ったら立ち上がってみたり、顔を上げて喉をそらしてみたり。短いおさげが左右にはねた。 声は綺麗なのにな。 調子っぱずれで澄んだ声が谷間の風にのる。 「おい」 トトは青い木の実をシルル目がけてぽとんと落とした。 はっと上を見あげたシルルは慌てたように、ちらばった楽譜をかき集める。ばらけてしまうのもかまわず腕に抱えると、丘から立ち去ろうとした。 「シルル」 トトは木から飛び下りて、シルルの腕をつかんだ。 「また歌いに来いよ。歌、聴いてやる」 「え、」 うっすらとした灰青の目が大きく揺れる。間近で見たシルルの瞳は、あの海の揺らめきに似てなくもなかった。 入り江に、人魚なんていない。 そう、いなかった。 人をとりこんで海に引きずり込む恐ろしい伝説なんてなかった。そこにいたのは、ただ、側にいない誰かのために歌をうたう女の人。 トトが簡単に飛び下りることのできる木から、あの人は下りることができないのだ。 もう入り江には行かないだろう。 トトは大きく伸びをして、また気に入りの寝床にのぼって行った。 続編を書いてみよう企画その2(企画になったのか−−;) (03,7,20)
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